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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

日韓の歴史をだどる⑫ 3・1独立運動 全土に拡大、200万人が参加

2019-10-24 11:52:44 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をだどる⑫ 3・1独立運動 全土に拡大、200万人が参加

李省展
イ・ソンジョン 1952年生まれ。恵泉女学園大学名誉教授。『植民地朝鮮―その現実と解放への道』『東アジア近現代通史』(共著)ほか

1919年2月8日、東京は雪まじりの寒い日であった。それとは対照的に東京朝鮮基督教青年会会館ホールは数百名の留学生の熱気にあふれ、立すいの余地もなかった。当時、在日留学生たちが朝鮮青年独立団を結成、学友会総会が急きょ、独立宣言の場に転じた。
参加者には女学生も見られ、女子学院に学ぶ金瑪利亞(キムマリア)は友人とともに着物の帯に宣言書を隠しひそかに朝鮮に渡り、母校・貞信学校をはじめ朝鮮各地のミッションスクールで独立運動を鼓吹した。ソウル在住の政治家・尹致昊(ユンチホ)は、「この運動はソウルではなく東京で始まった」と日記に書き残している。

「民族自決権」を光明ととらえて
三・一独立運動は、第1次大戦後の帝国主義諸国の世界秩序再編の過程で生じた独立運動の一つである。ロシア革命でのレーニンの「平和に関する布告」、そしてアメリカ大統領のウィルソンが1919年のパリ講和会議で提唱した14カ条平和原則の「民族自決」に促されるように、植民地とされた諸民族が次々と決起した。朝鮮でも同様にこれを一筋の光明と捉え、上海、フィラデルフィア、東京など海外で独立の機会をうかがっていた人々が、まず動き出したのである。
「韓国併合」(1910年)後、朝鮮総督府を設置した日本は強大な軍事力を背景とし「武断統治」を敷いた。憲兵警察制度を網の目のように張り巡らし、朝鮮民衆の自由と権利を剥奪し、民族系新聞の廃刊、集会結社の自由の剥奪、土地調査事業による収奪など、日本への圧倒的な同化政策のもとで、朝鮮の民衆は身動きが取れなかった。
ここに宗教団体が独立運動の先駆けとなった一因がある。文明国を標榜した日本は「信教の自由」を統御することができなかった。反封建・反外勢(反侵略)を唱えた東学を前身とする天道教、西欧とのつながりのあるキリスト教、それに仏教が加わり、上海の新韓青年党からの呼びかけに応じて、朝鮮では独立運動が綿密に計画された。
国王・高宗毒殺説が流れ民心が沸騰していたこと、群衆が葬儀に参列することを考慮し、3月1日が決起の日とされた。当日はソウル、平壌、宣川、定州などの都市で独立と自由を求める宣言文が朗読されデモが展開された。
その後数カ月にわたり、階級、ジェンダー、年齢を超えた運動が全土に広がった。参加者は200万人を超えたといわれる。平壌の運動を目撃したバーン・ヘイゼル宣教師はその組織力と整然としたデモに驚嘆しており、中国の革命家の陳独秀は「革命」の「周密」さと「文明」性を評価した。



「独立万歳」を叫ぶ朝鮮の民衆。円内写真は警官に逮捕される指導者=1919年3月1日、ソウル(『画報日本近代の歴史8』から)

教会に閉じ込め軍が放火・虐殺
しかし日本軍投入以降、様相が一変した。天道教徒とキリスト教徒が教会に閉じ込められ、軍隊が放火・銃撃し20余名を虐殺する堤岩里(ていがんり)事件をはじめ各地で無差別殺戮事件が起こった。日本政府は堤岩里事件の隠蔽をはかったが、国際的な現地調査などにより、日本の蛮行は世界に知れ渡った。日本では英文学者の斎藤勇が堤岩里の虐殺を嘆く詩を書き、『ニューヨーク・タイムス・マガジン』は独立運動特集記事を掲載している。
多くの民衆が騒擾(そうじょう)罪、保安法違反、出版法違反などで拘束・収監されたが、中でも梨花学堂の柳寛順(ユグァンスン)は独立運動で両親を失い、獄死したことから今もなお象徴的な存在として人々に記憶されている。
内外から批判を受けた朝鮮総督府はこの独立運動を契機に統治方針を変更せざるを得なかった。



柳寛順の受刑記録表(『独立紀念館』から)

歴史を歪曲する首相の所信表明
「内に立憲主義、外に帝国主義」とも評される時代であった。ウィルソンの「民族自決」は列強の利害調整によりヨーロッパに限定され、上海に置かれた大韓民国臨時政府の代表として朝鮮独立を訴えるためパリ講和会議に派遣された金奎植(キムギュシク)は会議への参加を拒否された。
日本はパリ講和会議で人種差別撤廃を世界に訴えたが、その足元で朝鮮の民衆は日本の圧政に苦しんでいたのである。この近代日本におけるダブル・スタンダードは形を変え今なお継続している。
安倍晋三首相は4日の所信表明演説で、「世界中に欧米の植民地が広がっていた当時」、日本はひるむことなく人種差別撤廃の理想を掲げた、と歴史を歪曲した。日本の近代は植民地支配や侵略の歴史と併せて理解されなければならない。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年10月23日付掲載


3・1独立運動は、日本が「宗教の自由」を抑圧できなかったことを巧みにつかって、東学を前身とする天道教、キリスト教、仏教などの宗教家などが加わって起こったのですね。
ソウル、平壌、宣川、定州などの都市で独立と自由を求める宣言文が朗読されデモが展開されたなど、自信に満ち溢れた行動だったのですね。


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実際の3.1運動 (旅人)
2020-10-02 23:04:46
戦後の創作独立運動を信じ込まされましたね。

「3.1独立運動」と呼び始めたのは、首謀者の数十人だけです。
民衆は「国王が日本に毒殺された」というデマに扇動され抗議の意味で「万歳、万歳」と叫んで行進するだけでした。

そもそも
1、当時の民衆は「独立」という意味を知りません。一部の貴族だけです。
2、ですから、日本への抗議の意味で行進はしましたが、独立運動だという認識自体がありません。
3、よって誰も「太極旗」を持っていませんし、「万歳」と叫んで行進しただけです。

貴族階級の扇動首謀者が「独立運動」を大きく見せかけるために民衆を扇動する工作としてこのような
矛盾した有様となったのです。
結局、このような詐術的な方法は、当時未開だった朝鮮人の一部の暴徒化に繋がり、日本軍による
鎮圧を受けました。

ちなみに、「それでも、こういう運動があったのだから日本が悪い政治をしていたのだ」などとすり替える
輩が共産党シンパに多いですが、併合前の朝鮮は治安が悪化しており大規模な農民蜂起が何度も起こり、
デモ・暴動の頻発地域でした。その状況を武力鎮圧し治安を取り戻していたのが併合時代であり、
併合後、10年ほどして起こったのがこの3.1運動です。デモ頻度は格段に低下しており、
日本側も当初は「万歳」としか叫んでないので、放置していました。

朝鮮民族は徒党を組んで暴れる民族文化を持っていますので、現代でも其処ら中でデモをやっており、
一種の祭り的にデモが起こる民族だという理解が必要です。
米国産牛肉の輸入反対で100万人デモになったり、大統領の友人が政治に口を出していたで500万人
デモになったり、そういうところです。

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